Pedestrian Monuments - Measured Monuments
なんかこう、日記って歴史の堆積物なわけで、とりわけ一年一年恥ずかしいことを重ねている身にとってはちょっと洒落にならないぐらい恥ずかしい。日記にも書き手のパーソナリティが出るなあ、って今更ながらに思いました。私はどこにいっても大概は小説で、エッセイにはほとんど手を付けたことがない、ていうかない。だからこう、エッセイの美しい“ぬるさ”のような感覚があんまりない。あれって大切なものだと思います。俯瞰し過ぎぬように、注視し過ぎぬように。そういう感覚は、たとえばプロスペル・メリメのような古典的な書き手の作品の底にある、すごい用心だと思うのです。私はそういう用心さがあまり無いし、メリメは私淑しているけれど、時々はアンドレ・ブルトンのような、あまりに危うい歩み方にも惹かれてしまう。パトスと、物語とを構築する才能と。
最近、物凄く驚いたことがあって、それはpedestrian(歩行の、歩行者)が「散文の」を意味するのに対して、measured(整然とした、慎重な)が「韻文の」を意味する、ということです。これは私にとって衝撃的な話で、というか最早カルチャーショックでさえあった。散文をそのまま物語と等号を置いているわけではないけれども、Measuredの韻文(ここでは「詩」と等号を置きますが)というのが成立し得るとは思えなかった。私にとって、詩とは、漫然と歩むことであり、豪奢な言葉の奔流を掬い取ることであり、散歩のようなものであった。少なくとも計画というものはなかった。散歩というよりは、放浪とか、当てのないぶらつきの旅に似ている。そうして詩魂の源泉に当たるまで、ぶらりぶらりと待つのです。そういうスタイルで私は詩作を続けてきたし、それは小説においてもそうだった。初めのうちはエスプリも詩もない。それが言葉を綿々と繋いでいくうちに、次第に詩が生まれてくる、あるいは音楽が。私はそういう鉱掘作業のことを物を書く、と呼んでいる。
当然のことながら、論理というものは確かにある。言葉というものは半ば超魔術的な、こうしたナビゲーション能力を具えてはいるものの、それを信じ過ぎてはいけない、という直感がある。また物書きというのはそういう詩魂と論理のはざまをバランスを考えながら、両極の淵に落込まぬように慎重に歩かねばならない、そうした危険に満ち溢れた旅をさせられる仕事なのでしょう。また私にとって文学とは、当然詩魂は必要だけれども、論理を欠かしたものはそれは文学とは呼べない、と言ったのです。詩にさえ論理はある。筒井康隆の「文学部只野教授」の講義で読んで感心したものの、書き手の名前を忘れてしまいましたが、詩というものは構成や文法、韻が互いに互いを高め合っているのだと言う。論理の魔術。
とはいえ、やはり私にとって、詩を書くということはPedestrianであり、物語を書くということはMeasuredなのです。だから凄く、カルチャーショックだった、これは。日本の詩歌は礼節としての、教養としての意義を持っていた為に、たとえば「ぬばたまの夜」のような極めてMeasuredな点を孕んでいる。ところが、文語から裂き出した、口語というのは、こうしたMeasuredな点を打ち壊す可能性がある。それはPedestrian以上に、詩の中に立体を生み得る、なにか、なのだと思うのです。それについては、まだ私は今掘り続けているこの言葉の文脈からは掘り当てられていない。
ところで今、私は改めて日記について考えさせられている。日記でなければエッセイについて。エッセイというのはMeasuredなのか、Pedestrianなのか。エッセイにおいて最も大切なのは、自己を見つめ過ぎないこと、自己と適当な距離を取り続けること、というのがまず私の認識です。過度に見た自分(あるいは物体)はさながらゲシュタルト崩壊に見て輪郭を失い、また別の何かになっていってしまう(というのは勿論、ヌーヴォー=ロマンが嫌みたっぷりに教えてくれたとんでもない教訓ではありませんか)。実はエッセイというものは、最も文学に近い道なのかもしれない。Measuredであると同時にPedestrianである、というのは、私の定義においては、前述したことからも解っていただけるように文学なのです。
だから私は、また日記を再開しようかな、と思っています。日記というものに現実の事象を持ち込んでくる気は無い。あえて言うならそれはこっぱずかしいのですが、その恥ずかしみというのも、おそらくは私の現実との距離感の取り方にあるのでしょう。私は前々から日記にはSelf-purificationが存在すると考えていた。物事を言葉に還元する——すべての物事が言葉からできているというのはいかにもロマンチックの過ぎた観点ですが——ことで、再度物事を構築していく。この構築の作業の中に、人は物事の浄化を見ることができるのです。だから人は「愚痴として」「泣き言として」日記を書き、そして大概の場合はそれで満足する。それを私はSelf-Purificationと銘打っていたのですが、恐らくこれも、Pedestrian(論理の無い現実、不条理的な現実)とMeasured(現実とは相違なる論理性)の間に事象が据え置かれることから得られた結果なのでしょう。人が文学に魅了されるのは、不条理(偉大なるカミュの美しい発見へ最大の賛美を)と条理(言語の論理)のはざまに自らを回帰させることを体験出来るからなのだと、今私は思います。
ちなみに私自身、この日記の文章は物凄く読み難いだろうな、と思います。実のところを申しますと、私は日記を書く瞬間には何も考えていない。いや今だって何も考えていない。それはやはり、Pedestrianな言葉の論理の魔術に導かれて書き続けているものだからなのです。だからこの日記に的確な論理展開を見出すのは極めて難しいでしょう。ある意味ではそれは、アンドレ・ブルトンが語ったオートスクリプトに通じているのだと思います。
作品目録。今、この作品群について語ろうとは思いません。
○「犬猫ソネチネ」(→)
○「ジムノペディの眠り」(→)
○「徒然河」(→)
○「グランド・ピアノ・ブリラント」(→)
それと今は文芸誌を読んでいません。文芸誌よりも読まなければならない書物が膨大にあることを最近ようやく感じました。たとえば今のPedestrianとMeasuredの話は、アンドレ・ブルトン無しでは思いつかなかったろうし、メリメの冷徹なまでの古典的な観察性を知らなければきっと適宜な例を思いつけずに筆を擱いてしまったことでしょう。ロブ=グリエや、バルガス・リョサ、ドーデーの「アルルの女」やイブセンの「ペール・ギュント」等、読みたいもの、読まなければならないものは幾らでもある。文学に従事したい、という気持ちは最近とても強い。ただそれは、文学部に行くことが文学を学ぶ者としてのライセンスを与える、という認識には繋がっていません。私は、人が生きる以上は、文学を知らなければならない——また私達は生きる上で、驚くほど身近に文学を行っているものです——と思うのです。また英知は、半分までは言語が与えてくれるだろうけれど、また半分は原語を足場として高くを見やる者にのみ許されたものなのだろう、とも。
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