【時祷音楽】むなぐらシュミレーションな話
なーんかすごいどうでもいいことを話しています。「胸ぐらを掴んでくれって頼まれたとき人間どんなぐらいの力でやるんだろ」みたいな事を友人と話していてむなぐらシュミレーションを決行するぐらい、ゆるゆると生きています。まー吠えたり強面で迫ってきたり思いっきり引っ張ったりはたまたゆるーく優しく引っ張ってくれる人も居たりですが、個人的には「(お前を掴むのは)何か嫌だ」と言われたのが一番ダメージ的に大きかったです。サックスの人は天然サディストなのか。
時間がないんでいろいろ加筆します。後付け最高。
(1)「時祷音楽」(→こっち)
リルケが好きです。リルケで遭遇したような単語をたかたかちりばめています。趣味です。インネンリウムとか、「ただ富んでいないわたしたちは、あるがままに貧しい」とか、「貧しいものの家は聖餐台のようだ/その中で永遠なものが食物となる」とか。リルケリスペクト。時祷音楽というタイトルもリルケの「時祷集」から頂きました。時祷っていいワード。
リルケがさんざん言ってきた神様と、旅人と、機械をたぶん掛け合わせたような感じ。旅人は世界全部の表面を滑走していく。土着する精神は無いし、ずっと放浪する。それでも旅人だけは宇宙のどこか片隅で静止している。旅人は旅人を逸脱出来ない。
この小説を具体的に書かせたのは、たぶんP・オースターの「偶然の音楽」だったんだろうなあ、とか。アメリカの風土をなぞるだけのナッシュの視点が好き。壁を建てていくことで次第に旅人であることを失っていくところも好き。そして土着寸前に至ったところで死を選んでいるようなところも好き。娘を放り出して死に衝突する、ナッシュのひどいぐらいの無頓着さへの頓着、にすごい感銘を受けたのです。後小川洋子が巻末に残してあるテキストも良い。「時間と場所がいくらスピードに乗って流れ去ろうとも、ハンドルを握るナッシュだけは“完璧な静止状態”にある、宇宙゛て唯一の“固定点”となっているからだ」。
「ぼく」の敗北は、たぶん「かのじょ」との別れが旅の終わりだったから。でも旅を終えた「ぼく」にはもう清々しい沈黙しかない。ぼくはこれから、西の海の工場で静かに生き続けるだろうけれど、すでに「ぼく」のなかの旅人は片目だけ永遠の中に葬られている。旅人というのはもしかするとそういう種族なのかもしれない、と「かのじょ」に植え付けてみた。無頓着に頓着出来る生き方なんて、たぶん神様めいているし、同時に機械めいているかもしれない。「帰ってもいい」という選択肢が眼前にあって、そして頓着せずに無頓着でない方向を選択した「ぼく」は仮初めの旅人だった。けれど「ぼく」は旅人に憧憬することは出来る。だから「ぼく」は捧げる。旅人で居られないことは自明。またあるいは、旅人で居られないことが同時に旅でもある、すべての生命は時間化して流動。どうであれ「ぼく」は今、不可能の壁にぶち当たって幸福。旅人であるということは、宇宙の静止に耐えられる人間。音楽はあるいは宇宙の静止ではないのかもしれない。躍動、ディオソニュス的な、ものかもしれない。けれど旅は、拷問のように、アポロン的。
好きなものを、一杯ちりばめました。中編コンテストに提出して結果は悪かったんだけど、すごく素敵な話になったと思います。未開の原始林をまさぐるような、そんな神秘の経験が、書きながらあった。シューマンが好きなので謝肉祭を埋めて、リルケが好きだから詩を埋めて、読んでみたいからスタニスワフ・レムを埋めた。すべてここに、自分がある。これ以上自分のために書いたテキストは、今までには無かった。だから何言われようとも好きです、この作品。個人的に大好き。
(2)「プラナリアは地図する」(→こっち)
プラナリアは山本文緒さんの小説のタイトルからかっさらっていきました。ちょうど谷崎由依「冬待ち」読んだばっかりなので、色々とモチーフ拝借してる。図書館とか。図書館は「冬待ち」の舞台があんまりにも素敵だったのでつい借りてしまった。
中身は普通のカップル話というか、距離感を保ってみよう、みたいな話なのかも。「どうしてあなたは、わたしをわかってくれないの」「どうしておまえは、おれをわかってくれないんだ」というこのお話で、二人ともが無理解の関係。餌やりとか世話見してくれるとかで、結構依存しているんだけど、別に恋愛関係であるわけでもないし、ただどうしようもなくて二人で居てる。そんな二人がどうやって生きていけばいいのか、というシュミレーションで、分裂だったのかもしれない。パラレルを描きたかったのはあったし、東浩紀の「キャラクターズ」には物凄く影響を受けて、だからこう、ループする現在、のようなものを書いて、そこにある救済を求めたかった。結果的に救済は成し得たと思います。時々でいいから自分をやめてみよう、というのはすごく説教臭いしつまらないし月並みの文句だけれど、あれが物語の帰結として、そして分裂を肯定出来る自然なフレーズだったし、またわたしも最終的にキャラクターたちにそう予言される。人間もよく分裂してる。その分裂はあんまり悪いことじゃなくて、むしろひとつのチャンスぐらいに考えていいんじゃないかな、と思うのです。わたしはわたしをやめられるから、わたしでいられる、というのは、個人的には祈ってる。であったらいいな、って。
(3)「ロイヤルイチゴミルクティー」(→こっち)
何だっけ、壁井ユカコの小説にこんなタイトルのがあった気がする。確か着想はそこ。中身はちょっとお寒い。好きだけどちょいお寒い。
中身も壁井ユカコです。壁井ユカコ大好き。
語ることがありません。一時間で書いたやつ。家族という関係環ってやつ。微妙にこじれてるけどまーそれでも生きていけるからいいんじゃないって、すっごくゆるるーな話です。後「頬に冷たいものを感じた」は指定の書き出しだったので。
(4)「シュンポシオンのカレー」(→こっち)
プラトンの「饗宴」は好きじゃないっていうかギリシャ人があんまり好きじゃないです。だからわざわざ「シュンポシオン」と銘打たせていただきました。対抗意識っていうかね。中身は自己解決話。小説で自己解決って駄目なんでしょーか。自分もよく自己解決してしまうわけで、何かをきっかけに物事が変わったーなんてのを体感したことはあまりありません(困難に差し迫ったときは他の人に助けてもらうので、そういうときはすごく他人を有難く思うんですが、鬱ってたりすると基本的に自己解決)。そういう意味で中身はすごーく自己解決話です。やっぱ小説で自己解決って駄目かなあ。本当は結構みんな自己解決すると思うんだけどなあ。中身は下品です。下品なパワーみたいなものが何か書きたかった。ディオソニュスとアポロンは哀しいかなニーチェで、動物園は松尾スズキの「女教師は二度抱かれた」からの着想。
音楽のはなし。
2008年度吹奏楽コンクールの曲聞きましたー。「天馬の道——吹奏楽のために」がいちばん好き、躍動躍動ー。「晴天の風」はホルンがめっちゃめっちゃ格好良かった。なんかすげーかっこいい、好き好き。「ブライアンの休日」は特に思うところなし。「火の断章」は課題曲Ⅴとして微妙過ぎ、「風の密度」とか好きだけどなーんかなあ。「セリオーソ」は何か言う言葉が見つからない。「パルセイション」とかの系列なのかもしれないけどあれに比べるとめっちゃ劣る。
GARNET CROWの「夢のひとつ」購入。「短い夏」が歌詞・メロディー共に好き。ここまで投げやりさを体現したメロディーって中々無いよね、ダウナーでいい感じ。ダウナーなんだけど根底は意外と爽やかっていうか、そういうのってすごく詩情の時間に似ている感じ。「Love Lone Star」は回帰だけどやっぱ歌詞がいいなあ、イントロにちょっと不安を感じるけど。ボーカルがすごくきれいに聞こえる。「夢のひとつ」は電子音が最高だ。おじさんは良い仕事してる、あの電子音が最高。歌詞も好きです何か。今回のシングルは「argentina」までのチャレンジは見られないけれどかなり上がり調子。GCは下手にアルバム出すよりシングル一杯出してほしいかも。
鬼束ちひろの「蛍」購入。「蛍」はピアノバラード。時間=蛍のイメージなのかなあ。歌詞はシンプルになった分力強い。蘇生感覚。「Hide and Scream」はシンプルなアレンジが映える。今回のアレンジャーは全体的にすごい素朴な音楽造ってくるけど、それぐらいが今の鬼束さんに映えてくる。羽毛田さんとはたぶん別れた方がいいかもしれないなあ。羽毛田さんのアレンジはちょっと、人間離れしている感じ。光がありすぎたりその真逆だったりして、根底の力のようなものがどこかで失われてしまっている感じ。今回のアレンジャーの方にはすごく生命感を感じる。だから蛍は生きている、みたいな。
「NHKアルバム名曲シリーズ」から「アランブラ宮殿の思い出」を。1000円でこんだけのボリュームは素敵。昔聞いたシャブリエの狂詩曲「スペイン」がやっぱり良かった、金管がすげー素敵だー。初めて聞いたファリャの「火祭りの踊り」はピアノがすげーかっこいい。後表題曲、タレガのアランブラ宮殿の思い出も良かったです。スペイン音楽素敵。ギター素敵だ。「アストゥーリアス」オススメ。
読書のはなし。
印象に残ったテキストは以下。P・オースター「偶然の音楽」、谷崎由依「冬待ち」、幸田文「父」、楊逸「金魚生活」、松尾スズキ「女教師は二度抱かれた」、東浩紀「キャラクターズ」、筒井康隆「文学部唯野教授」、チェーホフ「ともしび」「わびしい話」、よしもとばなな「新婚さん」「キムチの夢」「大川端奇譚」。時間が無いので随時感想追加ですぐう。
(1)谷崎由依「冬待ち」
谷崎由依さんという人のことをよく知らなかったのですけれど、すごく良い小説でした。言語空間というか、インネンリウム(内部空間)の体積が大きい。同じ号の「湖水浴」「3という数字」が恐ろしい勢いでつまらなかったのに反して、この小説はすごく良かった。何ていうか、世界が広い。散策出来る。自由な世界。
たとえば冒頭部の冷蔵庫の描写がいい。「扉を開けると、橙色の夕暮れのようにぽっかりと開いた空間がある。食べかけのピクルス、鰯の油漬けの瓶、ドライトマトが入った袋、封を切ってかなり立つベーコン、使い切ることのできないであろう幾つもの卵たち」とか。何というか、ヒキコモリのにおいがすごくふんわりと来る。珈琲のアンニュイさとか、埃だらけの部屋とか、鮮度の落ちた食材とか、この糸乃の世界が大変に美しい。「重要なことはいつも忘れてしまう」糸乃の、アンニュイで、ちょっぴりペシミスティックなんだけど、それでもゆるく生きている日常が、すごく素敵です。でも神秘なんだ、何かが、鉱石のように緻密に形成されている。図書館の描写。「木製の机に席を占める人々は、各々のうちに没頭している。その背中越しに窓の外の緑が光る。あからさまな昼の真下にいても、人々の裡には夜が広がっている。この夜の中では何にも曝されることはない。」そしてまた「窓の外の緑」の描写が次元的。「眼の端で緑の葉先がゆらめく。窓の外で欅が揺れる。ゆうらりい、ゆうらりい。この世のものとは別のリズムで。糸乃の目はそこにくぎ付けになる。欅の枝の、揺れるその動きの緩慢に、消える、すべてはこの一瞬に、夢と消える、と思った。」また部屋に戻って洗濯機。
何ていうか、幻想的なんだけれど、すごく緻密な生活の上にそれがある。詩情というものは生活に接しているのかも知れないわけで、こういうスタンスが好きです。中身は関係性のお話なのかな。糸乃を取り囲む人々。名前が同じだったり愛してくれたり消え失せていったりしてしまう人々。でもたぶんこの小説の帰結は、糸乃がようやく季節感を勝ち得て冬待ち出来るように、新たなる出会いなんだと思うのです。だからエリオットの「荒れ地」なんだろーと思うのです。私達は「荒れ地」に生きていて、《きみの隣をいつも歩いているその三人目》に脅かされているのかもしれない。《関係性の荒れ地》はまさしく糸乃が経験してきたことで、糸乃は三人の宇宙の一要因として拘束され続けてしまっている。《何でも言葉にしようとする》惠子と、椎野と、糸乃と。糸乃は結果的に惠子に苦しんだ。関係性に射止められた。それは既に豊饒の地ではなく《荒れ地》。そして糸乃と椎野が消え失せた今、本当は糸乃は歩き出せるはずなのだけれども、香川という《雨傘のようにしか必要としない》シェルターを作ってまで《図書館のような》関係性に落ち着こうとする。それは無理なんだきっと。本当は接さないか極々深いところまで突き詰めてしまうかどっちかで、中途半端なことなんて許されない。だから二度目三度目の関係性の崩壊には、生半可からゼロに回帰する痛みが生じてくる。糸乃は《わたし》を持ち得ない、ある種のボヘミアンであるのだと思う。《わたし》を取り囲むはずの壁ばかりが成長してしまっているそんなボヘミアン。糸乃は「お互いを、理解、しようとする、こと」しか求められないのかも知れない、あるいは。お互いに苛立つこととか、極々ナチュラルに合っていいのにやらない。それはやっぱり惠子という人間の存在が陰影を落としているのかな。三人の関係性に微妙な高低差があったから、その円環は崩壊することとなった。《図書館のような》関係性とは、たぶん高低差の無い関係性のことだと思う。でもやはり香川が慧子に「会わせて」と云ってしまうように、そんな関係性は成立し得ない。でも本当に関係性ってそんなに大変なものなのだろうか、ということ。慧子があんなにも簡単に関係性を壊してしまったように、反悲劇的に壊してしまったように、実は普通のことなんじゃないかな、ということ。私達はそうやって日々関係性を看過している。最後に椎乃という、今はもう関係性を失った人の亡霊のようなものが告げにやってきてくれる。「書いてないことはすべて決まっていない」と。関係性とは書き込むことだ。意識して創造していくもので、そこには生命とかバランスとかはない。それだけのことなんだ、という。だから犬を飼う女性との、ただあれだけの短いシーンがラストを飾る。「寒さそのものになってしまえば寒さを感じることもない」という糸乃。関係性の凍結そのものになるということ、すべてから断絶するということ、そうすれば関係性の凍結に心穿たれるようなことは無いだろうから。でも本当はケイコという名前に惠子あるいは慧子を書き込んでいる程度のことでしかないのだから。だから冬待ちは終わる。冬待ちをする必要は無い。《春がほどけていく気配》を、本当にボヘミアンになった或いはなってしまった? 糸乃はもう、冬の荒地を歩く必要は無い。そして私達は皆三人目を持っている。《彼女(おそらく慧子)は人間だった。そして私たちは二人だった。誰かがいるような気がしながらも。誰か。それが三人目というやつなのだろうか。そこに映る像のように、ちょうど彼女を鏡にして。》たぶんその三人目は既に失われた惠子であって、もっと遠い色んな誰か。私達は誰かと接するときに、たとえ偽りの《図書館のような》関係性の彼方に居た人であろうと、その人の記憶を投影しながら視ているのかもしれない。つまり私達の《関係性》は永遠に壊れない。関係性はゆっくりと鉱物になっていく。或いは氷に。だから糸乃は悲観しなくていいんだ。関係性が壊れることに恐れて、でも関係性が皆無であることにも居られないからといって《図書館》の「夜の闇」に眠る必要は無い。私達は荒れ野に生きている。つまりは、心臓達が血を通わせる荒野に。だから冬待ちじゃなくて、もう春待ち。
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